平沼:塚本さんのつくられる建築の中で、人と人との関係がどのようになっていけば良いと考えて設計されていますか?

塚本:人と人が、直接向き合わないといけない状況は辛いので、間に何かが挟まっているのが良いと思います。建築やふるまい方など挟まっていて、共有できることが大事だと思います。共有といっても、個人を尊重するのをやめて無理やり昔の村社会に戻れということではありません。近代化の過程で、乱暴なやり方で個人というものを確立しようとした問題が、今いたるところにあると思います。建築は一人ではつくれないし、それぞれの場所に固有の建築の形式があり、うまくつきあえば生身の人間よりもずっと長もちする。亡くなった人の想いもずっと伝えられるようにしたいと思っています。

平沼:建築と地域性の関係について教えてください。

塚本:建築が地域の全体性の中でどのように成り立っているのか、成り立ってきたのか、そういう物事の相互連関を理解することが大事だと思います。従って建築のかたちなどを地域性のシンボルや記号として表現するのは必ずしも望ましくない。シンボルや記号としての表現は、かたちをそうした全体性から切り離してしまうからです。むしろそこに見いだした相互連関の中で、建築はどのような役割を果たしていたのか、果たしていけるのかを考え、提案するのが良いと思います。

平沼:建築と社会、建築と都市、というビッグネスなところで、どう考えていますか?  

塚本:都市での生活は断片化していて、そのような全体性が見えにくくなっています。それを想定すること自体無駄だと言う諦念すらあると思います。特に80年代以降は、積極的忘却というか、開き直ってしまった感があるので、そろそろその開き直りはやめた方が良いと思っています。今、地方都市や小さな町でのまちづくりに、建築家が献身的に取り組んでいるのは、そういう場所でなら人の顔も見え、全体性が感じられるからです。 でも景気が良くなって都市に仕事が増えると、また忙殺されて断片化の片棒を担ぐことになりかねない。そうならないよう常に自分を戒める必要があると思います。

平沼:どうですか、芦澤さん。

芦澤:我々が都市でつくる建築の手法が、合理性を前提としたモダニズムの論理にかなり委ねられていると思います。我々建築家がもがきながら何かそのモダニズムを越えていく、あるいはモダニズムを捨て去れるような何らかの新しい建築手法を皆さん探していると思うんですけども、そういう行為自体はどう思われますか?塚本さん自身は、モダニズムに対して、それも一つの手法だということで割り切られているのか、お聞きしたいです。

塚本:工業化とか標準化とかがモダニズムの中にあって、その副作用がすごく大きかった。目的を決め、そこに向けて合理的な解答を積み重ねるやり方自体は健全だと思うし、創造性につながる筋道の一つのだと思っています。ビヘイビオロジーというのは、様々な物事のふるまいを統合するところに建築を位置づけることで、単に見た目が珍しいとかではなく、内側から空間を実践するものとして、ふるまいを検討するものです。どんな建築もそこをよく考えないと社会的サステイナビリティがないと思います。

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