平沼:いくつか質問させてください。海の博物館のとき、時代はモダニズム、メタボリズム、どちらかというと木造じゃない建築の方がフォーカスされていて、時代背景と全く違った時間軸をされているじゃないですか。これは意図的ですか?それともそうなっていったんですか?

内藤:そういうところにやむを得ず巻き込まれました。そういうタチなんですね。小学校三年の時と同じです。当時、ちょうどバブルが始まっていて、それと同期して建築界ではポストモダニズムが最盛期。要するに形の恣意的な組み合わせだとか引用だとか隠喩だとかっていう、磯崎さんがつくりあげた観念的世界がほとんどしめていて、東京で若い建築家が集まると、みんなポルシェかベンツかに乗ってきて、自慢話は、俺は坪単価250万円のものをやっているだとか、そういう鼻持ちならない会話が建築家のパーティーでなされるという実に嫌な時代ですね。僕だって普通の人間ですから、いいなって思っていたんですよ、そんな金もらいたいなって。だけど、実はその頃に「海の博物館」のあの館長に会ってしまったんですね。あの博物館の収蔵物を見てしまった。漁労関係の船や民具が6800点、重要文化財になっていた。ただボーッと見るだけなら、その重要文化財1個1個は、ゴミ同然にしか見えない。でも、その重要文化財1つ1つを重要文化財指定にするための紙があるんです。そこにイラストが描かれてあるわけです。それを見た時に、これはそうかと、アタマを殴られるような衝撃があった。見方を変えると宝の山だということに気が付いたんです。博物館はお金はない。でも収蔵庫なんだから最低100年は持たせてくれって言われた。けど、計算すると坪単価は40万円前後。東京に帰れば坪250万って自慢しているやつがいる。当然、設計料は単価にかかるわけですから、ものすごく安いわけですよ。だから、言ってみるとドツボにはまっちゃったということなんだと思います。だから止む無くです。出来上がっても、こんな時代錯誤はほとんど注目されないだろうなと思っていました。ほんとうに時代の空気から孤立していたと思います。あの当時、地方のさらに片田舎、あんな場所で、立てこもるように孤立して、ああいうやり方をしていたのは、僕一人だと思います。

芦澤:そういう意味では、ディスカッションする同世代の建築家だとか仲間っていうのはいらっしゃらなかった感じですか。

内藤:あんまりいなかったですね。僕のその頃は、メンタルに救ってくれた大事な人が何人かいました。皆さんご存知かどうかわからないんですけど、生け花作家、華道家の中川幸夫という人がその一人。中川さんの存在が大きかったかな。中川さんも天才の一人だと思います。華道の立花って、花を立てる、その400年の歴史がすべて頭の中にあるにも関わらず、誰かがやった事は絶対にやらないと心に決めていた人。この人が貧しいんですよ。中野のひかり荘っていう木賃アパートの2階に住んでいたんだけど、六畳と四畳半の二間。それで僕が行くとお茶を出してくれるんだけど、そのお茶を出してくれる茶碗が李朝の茶碗だったりする。とても貧しいけれど志がとてつもなく高い。ともかく作品がすごい。そういう人です。生け花の各流派も中川さんに一目を置かざるを得ない。そんな中川さんと親しかったので、モノを作っていく厳しさと、それから孤立する仕方と、中川さんに学んだような気がしますね。建築家の世話にはあんまりなってないかも。

平沼・芦澤:(笑)

平沼:建築形態や空間をどのように導き出されていますか?

内藤:可能であれば自分が、恣意的に考えたモノでない方がいいと思っているんですね。俺が決めて俺がやったっていう風にできるだけならない方がいいと思っています。建築っていうのは、僕をはじめうちのスタッフ、さらにその先には建設会社の人たち、現場の人たちっていう、全体の共同作業の中で生まれてくるものだから。ただそこに実現されるべき空気とか、こういう空気をつくりたいなみたいなのは僕が考えますけど、形を決めるのはあまり積極的じゃないというか、そこに構造エンジニアが入ってきたり、設備のエンジニアが入ってきたり、施工者の人が入ってきたりって、後から参加してくるわけだけど、その空間をつくるためにそういう人たちがどう動くか、どう作業を構成するかっていう事が中心で、僕はあまり決めてないですね。

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