山下:そうです。僕は昭和35年生まれで、現在57歳です。小学校へ通う際の持ち物リストの中に、ノコギリ付きのナイフがありました。今となっては、小学校にそのような刃物を持って行ったら大変ですよね。でも当時は普通にポケットに入れて持って行き、学校が終わると刃物を使って竹薮に入り、竹からゴム鉄砲を作たり、さまざまな自然素材を使って遊んでいました。そして中学生の頃の部活は、バレーボールをやっていました。そして高校時代は体を鍛えていました。

平沼:何をして体を鍛えていたのでしょうか。

山下:はい。主にウエイト・トレーニングをしたり、サンド・バックを使っていました。実はこれには深い理由があります。奄美には十数校の高校がある中で、一番優秀な高校が大島高校(俗に大高・だいこう)と言う学校です。偶然、僕はこの学校へ入学できたのですが、寮に入るとそこには、空手部と柔道部しかありませんでした。

平沼:優秀だと思っていた学校に入れば、格闘系だったのですね。(笑)

山下:そう(笑)、まわりが格闘系だから、後輩の態度が悪いとすぐに屋上に呼ばれます。だから鍛えなきゃならなかったのです。

平沼:自己防衛のためにもですよね。

山下:そうです。寮生の殆どは、空手部もしくは柔道部でしたが、僕だけどちらでもありませんでした。それでも体格が良かったこともあり、2年生の時からその学年をまとめる寮長となりました。でも実は寮長は2倍多く叱れます。(笑) 僕は負けることだけが嫌いだったので、一度もバーベルを戻したことのないくらい鍛え上げていきました。当時は、胸囲が106cmぐらいありましたかね?

平沼:胸囲が100cmを越えていたなんて、ムキムキじゃないですか。

山下:はい、ムキムキ。(笑) あまり自慢にはならないですね。

平沼:いまも何か、健康管理のようなこと含めて、トレーニングをされていますか。

山下:歩くことくらいでしょうか。
東京ではあまり車を使わないで歩きます。事務所が表参道、住まいが西麻布にあるので、毎日その間と、近辺を歩いています。現場に行くときにもできるだけ電車を利用して、歩いて向かうようにしているくらいです。

平沼:体格を見ると、今でもトレーニングを続けられているように感じるくらい、強そうですよね。

山下:以前に比べて、お腹が出てきました。(笑)

平沼:(笑)いやいや、そんな風には見えません。(笑)
山下さん、そもそもはなぜ、建築をやろうと思ったのですか。

山下:僕は幼い頃から絵を描くことが好きで、中学生までは絵描きになりたいと思っていました。しかし高校生になり、授業中に隣の席の友人の油絵を見た瞬間に「あっ、ダメだ。」と思ったのです。彼は結局芸術系の大学に進んだのですが、その時にモノマネとアートはやっぱり違うと感じました。まぁ、僕は山を緑色と印象を持っていたのですが、彼の山は赤なのです。空は青ですが、彼にとっては黄色なのです。そこから抽象系の形も含めて、捉え方が全然違うことを感じました。それでもやはり絵は少し描くことができ、体を動かすことも好きだったので、これらを活かすことができる職業を探していた時に、現場監督のようなイメージが湧きました。大きな現場に行くと小屋があって、そこで図面を書いて現場管理をしているようなイメージです。それがいいと思い、建築家になりました。当時の奄美は、就職先と言えば学校の先生、看護師さん、医師もありましたが少数で、あと役所の職員などですね。選択肢が限られていました。「建築家」という言葉は奄美にはあまり無かったので、大学に入って初めてその存在を知りました。

芦澤:建設業の仕事は、奄美大島にもいろいろとありますか?

山下:ありますね。奄美は土建業の仕事が凄く多いです。理由として、実は奄美大島は、昭和20年から28年までアメリカでした。知らないですよね、だから8年もの間は外国だったのです。

芦澤:アメリカ…ごめんなさい。沖縄とはまた別ですか?

山下:沖縄は20数年で、同時期くらいにアメリカに侵略されていました。当時、奄美は復権運動が盛んで、90%強の署名が集まりました。一方で沖縄は、その当時はまとめ上げられなかったのです。奄美はもちろん沖縄も徐々に復権の押しが強くなっていたため、奄美は昭和28年に日本に戻されました。そして日本は、8年もの占領期間に対するお詫びの気持ちも含めて、何百億円もの補助金を落とすようになりました。それにより明らかに土建業界が生きてくる。だからこそ、その頃からコンクリートが海を埋め尽くしていき、寂しく思うことが多くありますね。

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