栗生:それで、話を聞いて、あぁ、建築ってのはこういう事をやるんだって。要するにね、製図板に向かって、図面を描いていればいいんじゃなくて、そういう、ありとあらゆる分野の人達と議論をしながら、その専門知識を吸収して、それを設計に反映する。こんな面白い仕事はないな、とその時思ったんですね。

平沼:なるほど。なんか、いつまでも聞いていたくなってくるんですけれど、もう35分とかになってしまって(笑)すみません。早速、植村直己冒険館から。

栗生:はい。植村直己冒険館、1994年ですけれどもね。僕の設計の原点になっているように思うんですね。日高町という所でね、彼は生まれたんです。兵庫県の日高町。で、私はこれを設計する前に、植村さんの書かれた本、或いは植村さんについて書かれた本をほぼ全部読んだんですね。そこで植村さんの冒険の仕方っていうのに大変共感したっていうか、他の冒険家とずいぶん違うっていうのが分かったんですよ。それはどういう事かっていうと、他の冒険家達は、近代装備を身に着けてね、自然を征服するっていうメンタリティだったけども、この植村さんだけが、まず自分でその現地に行って、自分の身体を慣らしていくっていうね。まぁ今だったら当たり前で、高地トレーニングなんかをするんだけど、そういう事を徹底してやっていた。例えば、北極圏12,000qを犬ぞりで横断する前、1年前からエスキモーの部落に入って、エスキモーの食べる物を食べて、エスキモーが着る物を着て、エスキモーと同じように生活して、狩りをして、犬ぞりの扱い方を、勉強してっていうような事をする。さすがの植村さんもキビヤックっていうね、鳥の内臓を腐らせて、保存してっていうような物を口に入れて、途端に吐き出したって言うんだけども、だんだんだんだん、それが身体に馴染んでくるって。好物になったって言うんですよね。それは実は、自分の身体の内部から温めるっていうような効果があるんだろうと思うんですけれども、最終的には、日本から来たエスキモー人と言われるようにまで、現地に馴染んでいく。環境に順応・順化していくっていう事ですよね。で、彼に初めて会った人は皆、彼の魅力に引きずり込まれるっていうかね。エスキモーの人達にも、言葉が通じないのに、そこでその地域に順応し、人間にも順応していく。で、建築も何かその土地に順応・順化するような建築である必要があるんじゃないかなっていう風に思ったのです。折角、植村さんの冒険館をつくるという事でしたのでね。それが、こういう敷地なんですよね。もう使われていないですけれども、棚田があって、樹林があると。当時の町長さんはね、「栗生さん、あの、場所を決めてください。この辺り一帯を『植村直己冒険公園』にしますので。その中で、冒険館の建てる場所を決めてほしいのです。決まったら、樹木を伐採して、ブルドーザー入れて、平らにします」って。うん。そこに立派な、もう、目立つ物を作ってほしいっていう話だった。でも、「まぁちょっと待ってほしい」と。まず、さすがに使われていない棚田だけれども、これはやっぱり、その土地の人達が汗を流して作った、価値ある遺産であると同時に、植村さんが子供の頃この風景を見てたと。その冒険館は、植村さんの遺品を展示する場所なんですけれども、この場所の風景もやっぱり植村さんが見たであろう風景でもあるわけです。この林にしても良い林はね。基本的には1つの展示として考えて、残した方が良いんじゃないかという事で、こういう建物にしました。棚田だとか、林、まあ雑木は刈りましたけど、それ以外の物は残しながら、直線で200mの細長い隧道のような建物にして、大半を地下に埋めているんですね。斜面地でしたのでね。入り口から入って、ちょうど真っ直ぐに抜けていく幅が1.5m。両手広げると、壁に手が付く。ワンウェイのミュージアムで右左に展示スペースがある。で、地上に見えているのは、高さ2mのガラスの箱です。この壁面に植村さんの生まれた時からの業績をプリントしています。で、外部展示にもなる訳ですよね。建築としては、ほとんど、この足元に埋まっている状態です。これ、山の稜線をよく見せたい、写真で言うと、フレーミングとかトリミングって言いますけれども、2本の既存の樹木の下に水平のトップライトがある。で、それによって切り取られた山の稜線が顕在化してくる。これは植村さんが当然見ていた山であると。この山を意識化させたいなという事が意図にありました。

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