香山:その悩みの時代は皆、必ずあるわけですが、僕の場合は20代に強烈なのがありました。私たちの世代が建築を学びはじめた時代は、このような建築のレクチュアシリーズはなくて、建築家が皆さんの前で話す機会はありませんでした。つまり今以上に、まだまだ建築家たちは、市民権も持たない時代でした。でもその時に、丹下健三という巨大な星が現れた。近くに星が現れたから僕たちの世代は、それに惹きつけられました。

僕が大学に入学したのが、1950年代の終わりの頃です。建築というのはこんなにも凄いものなのかと思いました。広島ピースセンターができ、旧東京都庁舎や香川県庁舎ができた時で、それらは本当に圧倒的なものでした。言い出すとキリがないけれど、僕自身はそれらに惹かれて大学に入り勉強していて、しばらくすると、いろんな疑問が生じてきたんだね。一言でいうと、丹下健三に憧れていて、そして丹下先生にも可愛がられた。 丹下先生の家にも幾度と通い、丹下建築の中にいると綺麗だけど、自分が空間に包まれて、そこにいると落ち着きだとか優しさを空間から感じ取れなかった。それは率直な意見です。当時、圧倒的なものですからその時に“俺は建築の才能が無いんじゃないか”とまで感じていました。沸々と思い、ある時、友人に話したら、「それはきっとお前の才能が無いんだぞ」って、言われてしまいました。「だって才能があるやつはいいと思うんだよ」と。当時の私にとって、その煩悶は結構、深いものとなりました。どうしたって「思えないものは思えない」わけです。それでも私は大学に残ったのだけれど、段々、段々、大学へ行かなくなり、言ってみればドロップアウトですね。

それ以前に、京都の大徳寺の大仙院へ、たまたま歴史の先生に連れて行ってもらった時に、お坊さんに可愛がられた経緯があるんだけど、そこに部屋をもらって籠っていました。まぁただ、籠っていてもしょうがないから、気候風土を感じ、お寺を見てスケッチを描いたり、木造の仕組みを学んだり、それは後にとても良い勉強となりました。

でも、その時はもうダメか、才能が無いならやってもしょうがないとか。才能があるか無いかは実際やってみないと誰にも分かんない。だけど、本気になってやれないというんだったら、それは才能が無いんだろうと考えていました。

でも、歴史の建物を見ていろいろスケッチなんかをしていて面白いのだから歴史家になるかと思っていたんだけど、その時に僕にとって幸運にも、ある雑誌をたまたま手にしたんです。今はないけど、Zodiacというイタリアの本ですが、そこに載っていたのがルイス・カーンのリチャーズ医学研究所の最初の写真と、鉛筆のドローイングです。僕は本当にショックで、それまで見ていたル・コルビュジエとかミース・ファン・デル・ローエのものとは全然違う。デッサンしながら、この建築を形の奥から引きずるような絵で、近代建築を線で描いてパパっと色を塗るのとは違うんです。

僕は小さい時から絵が描くこと好きだったから、こういう描き方で建築が捉えられるなら「自分にもできるかもしれない」と思ったことが、大きな転機となりました。

それが大学院の時、1962年です。それでアメリカの大学に手紙を書いた。本当に今でも忘れられないよ。奨学金を出すからアメリカに来いと返事が来た。今は恵まれた時代で、アメリカへメールを送りアプライすれば大学に行けますが、その時代では日本から外国へ行くことは、基本的に不可能に近かったのです。向こうから奨学金を貰わない限りビザやパスポートが下りない。カーンは素晴らしい先生だった。建築家としてももちろん素晴らしいけれども、先ずひとりの人間として、そしてひとりの教師として素晴らしかった。学期の最初の日、教室の前で、僕等外国から来た学生が何人かで立ち話してたんだけど、そこへ白髪の小さい老人がぴょこぴょこ現れて、自分の方から手を差し出して “I am Louis Kahn” と向こうから挨拶した。偉い先生の方からそんなこと有り得るかのと、びっくりしました。

芦澤:カーンは当時、お幾つでしたか。

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