香山:63歳かな。現代の60歳は若いけど、その頃ではすでに長老教授。その時僕はまだ22歳。その若造に、先生から先にあいさつした。日本の偉い先生では考えられない、カーンとの出会いでした。

授業は本当に素晴らしかった。先ず丁寧に学生の意見を聞いていました。彼の話は哲学的という風によく言われますが、僕としては哲学的というよりはむしろ、日常的な言葉を使って建築を喋ろうとして難しくなっているわけで、単に難しい数字とか哲学の言葉を使って言っているのとは違うんです。具体的に建築の実例で、例えば今僕が話している光とは、「バロックのこういう光なんだよ」と言ってバロックの本を持ってきて見せて説明する、これなんだと。

僕はそれまでこんな歴史の授業は聴いたことがない。というか歴史の授業は日本の大学ではただただ趣味で教養であって、設計とは関係ないと思っていました。歴史と設計が繋がっているものだと思ってもみなかった。それでこのことに、深く感心したんですね。それが僕にとってのアメリカでした。本当に嬉しかった。

芦澤:設計の演習などのエスキースもカーンが指導をされていましたか。

香山:そうですね。ただ、もう一人素晴らしい指導をくれた先生がいました。それは当時、若くて無名の先生だったんだけど、授業が素晴らしかった。僕は今まで、あんなに懸命にノートをとったことがないです。その人の名前は、ロバート・ヴェンチューリ。

平沼:わっ…一昨日。お亡くなりになられましたとのご通知がありました。

香山:そうですね、一昨日ですね。
僕も急で本当にびっくりしました。彼の授業は本当に素晴らしい授業だったんですよ。彼は教養の人ですから、歴史の具体的な実例あるいは詩の話が出てくるんです。日本でも、建築というものをそういう風に少なくとも自分が理解したことがなかったので、本当に感激しました。ヴェンチューリは、その後、何度も日本に来たり、アメリカで一緒に講演をしたり、私の生涯にわたる恩師です。

そういうことがあって、どうしてもヨーロッパの建物が見たくなって、1年間野宿しながら色々見てまわった。その時にまた偶然が起こって、九州芸術工科大学という新しい大学を作るにあたり、ヨーロッパをフラフラしている変な人間の中にも面白い人間がいるかと探しに来た先生にたまたま出会ったんです。それで、来ませんかと言ってもらったけれど、僕はアメリカに帰るつもりだったし、日本みたいなジメジメしたところに行く気はない最初は断った。そうしたら翌朝また電話がかかってきて、キャンパスも作るんですよ、君が全部やればいいと言うから、それならと帰るつもりになった。それで日本に帰ってきて、その間はキャンパスも一生懸命やり、もう一つはアメリカで受けた教育をどうしても日本でやってみたいという気になったんです。それで九州芸工大学にいる4年間一生懸命やって、それでアメリカに帰ろうと思ったら、東大でもやってみないかと言われたんです。東大では全然勉強を習った気がしないから、自分なりに、やれることをやってみるか、というわけです。内田先生がいらっしゃったら怒られそうだけどね。

平沼:わはは。(笑)

香山:だからアメリカに帰るのは延期してもう一回ちょっとやってみるかという気になったんだよね。それで頑張った。そうしたら30年経って定年、60歳までいっちゃったということですけど、東大辞めた時は誠に開放された気分になってそれから一生懸命設計をやって、20年経って今日に至ります。

平沼:香山先生、本当にありがとうございます。僕はこの話しをいつまでも聞いていたい気がしますが、皆さん、きっと作品も楽しみに来られていますので、どうかお願いします。

香山:ついつい長く話してしまいましたね。はい。これは僕がアメリカに行く前の23歳くらいの時にやった最初の建物で、東京郊外にある相模女子大学という大学の教室棟です。それまで設計なんてものは全然やったことがないのに、その時自分が欲求不満だったから、やるとなったら無我夢中で全部やって、構造計算まで自分でやりました。現場の図面も書いて、現場もやった建物です。これを見ていただくとやはり、その時の丹下健三とか菊竹清訓さんが、柱梁の構造的な表現を念頭にやっていたというのはもう一目瞭然だと思う。ペンシルバニア大学にこれを送ったら奨学金が出るということになった。

平沼:アメリカに行かれる前ですよね。

香山:はい、アメリカに行く前です。

芦澤:大学を出られてすぐですか?

香山:学部を出て大学院にいたときです。その頃の僕の悩みが建築の気分に出てないですかね。

会場:(爆笑)

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