田根:そうですね。冬はすごく寒いんですけどね。すきま風が結構来ます。

平沼:本当に大したものです。はい、では早速。

田根:去年呼んで頂いて、こういう掛け合いがあると思っていなくて終わりきれなかったのですが、また呼んでくださったというので今回はやってきました。去年から1年間の作業のものを持って来ました。これが先程のスペースからがらっと変わりまして、こんなオフィスをこれから借りて、今は少しリノベーションをしているんですけども、天井がガラスになっているので、空が天井みたいになっていて、雲が過ぎていく様子が見えたり光が当たってなかなか良いスペースですね。大変綺麗ですがもともと駐車場で、改装してどうにかオフィスにしようと思っています。

平沼:これは何階建ですか?

田根:4階建の立体駐車場のワンフロアを借りて、オフィスにしようとしています。
ではまずArchaeology of the Future、日本語では「未来の記憶」という翻訳をしたんですが、考古学とか遺跡、そこにこそ未来があるのではないかということ。これはニューヨークのマンハッタンの風景なんですが、自分もニューヨークに20歳の頃に初めて行って、このマンハッタンの物量というか、人のエネルギー、街のエネルギーに圧倒されました。日本を出て、ヨーロッパを少し旅して、それでニューヨークに来た時の衝撃は未だに忘れず、その後何度行ってもニューヨークの力にはすごいエネルギーがあると思っていました。1950年代以降、都市の中心部がどんどん高層化していくというのは、多分人類史上それまで起きなかった1つの現象として、限られた土地を活用し高層化する技術が発達したこと、そうした形態的なシステムが出来上がったことによって街が変化したのではないかと思います。一方で、同時に1950年くらい、第2次世界大戦以降どんどん地方に住む人々が都会に仕事を求め、街に集中した。都市の中心部には住めないんだけれども、その周りに郊外という土地が開発されて水平に広がっていったというのも、同じように起きた1つの現象です。最初の写真は、実はリオの街の中心部なんです。これは、東欧のポーランドかと思いきや上海の郊外。いわゆるジェネリックシティーという、どこにも属さない土地、属さない人工的につくられた街なんです。こちらはパリの郊外なんですが、これを見ると何となくパリらしい風景というか、一部が解体されて、元々はモダンな建物が建っていたところが開発されている。この写真を見た時に僕はすごく違和感を感じました。近代建築の教育を受けて、近代建築の未来があると思いながらやってきたんですが、新しい建物が先に壊され、グレーの屋根で作られたパリらしい街並みは残されると。そうすると、未来を作るはずだった近代の建築が先に壊される。では僕たちは何を信じて建築を、または未来を考えていったら良いのだろうかというのが、この瞬間に分からなくなってきました。ではどうやって建築を考えようか、または建築というものがもし未来を作ることが出来るのであれば、どういう風に考えていこうかと。

芦澤:そう思われたのは何歳くらいの時なんでしょうか?

田根:エストニアのコンペに勝ってから2、3年くらいした頃ですね。エストニアのプロジェクトを進行しながらこれがただコンペに勝ったという以上に、軍用の滑走路を使ってその線路地をナショナルミュージアムにするというのが、単なるデザインや新しい建築とは違うものから生み出すができたのではないかなと思いました。場所の記憶ということをその時からもう少し考え続けていこうと思ったんですね。

芦澤: 20代ということですよね。

田根:26、7歳とかそのくらいですかね。

芦澤:結構若い時に。すごいですね。

田根:おやじくさい気付きを。笑。海外で1人でいることがすごく長かったので、外国人の友達の中で1人ぽつっと日本語で考える時間が、日本人の友人がいたり仕事仲間がいるよりも、今となっては大きく力になってくれたのかなと思いますね。

芦澤:だから若い人にはあんまり群れるなということですかね。一概に言えないですか?

田根:簡単に喋ってしまうのも良くないなと思いますね。やはり自分の考えは10年くらい喋らない方がいいかなと。1つ喋ってしまうとよくできた気がしたり、喋ったことによって満足してしまうという不思議な力がある気がするので、本当に考えていることはあんまり口にしない方がいいなというのが僕の実感ですかね。

芦澤:では若い人は悶々と考えてください。

 

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